81)物思いにふける
高級椅子に座って
ふとこんなことが頭に浮かんだ《本音と建て前》という言葉がある・おいらは40才まで主に水商売が基盤だった、お客さんと交わす言葉に建前は必要ない<いつも本音で好きなものは好き・嫌なものは嫌い>で会話ができた<お客さんあっての店である>お客さんも酒が入ると本音で話をしてくれる。

ところが昼間の職業ではそうは行かない、会社が大きいほど建前が必要になるようだ<会社あっての自分である>課長もいれば部長もいる・その上に社長もいる、同僚やライバルとの<出世競争>もある・建前の使い分けが必要に~
この辺に水商売と会社勤めの違いを感じる~水商売上りはアホと云うが・このアホが馬鹿正直で良いのだ~おいらは今も本音しか知らない・アホの方が好きだ~
新聞記事を読んで
又かよ~どこそこのOO先生がロリコン犯罪(ロリータ・コンプレックス:幼少女への恋愛感情)で逮捕されてる、このロリコン趣味は高学歴やお堅い公務に従事した人が多いのだ~そこには一つの背景がある・彼らの幼少年時代は勉強ずくしで机と椅子から離れられない、仲間と一緒に遊ぶ時間や女の子との接触もない

そういう人達がそれなりのお堅い職業に就いて・適当なお金と時間を持て余すようになると・ない物ねだりの妄想が湧いてくる・行動を起こせば事件になると知りつつ・我を忘れてやってしまう・これがいつものようにニュースになる・
逆に悪ガキと言われた人にこの手の犯罪は少ない<親の教育でやる事・なすことが異なってくる>ペットショップの犬に例えれば解り易い、飼い主によって子犬は見る・聞く・育つ・学ぶ世界はまるで変わる。
小・中・高の学校の先生も似たり寄ったりのことがある<生徒達と日々向き合ってると同化してしまう>恋愛感情とかが生まれるのもこの同化現象にあてはまる、しかしそんな環境下にあってもきちんと抑制されてる人達の方が大勢だ~そういう人達は褒めてもイイ位だ・当たり前のことなんだが、この当たり前のことができないときがある・人間だから~
ある医院に行った時に
60代の院長が・青少年問題について学会に出席することになったという・院長の話を聞いていると・この先生は青少年の心理や行動を理解できていないように感じた、毎日患者さんとの対応に明け暮れていれば・それは当然かもしれない・夜遊びで街角をウロつくような少年・少女と接触をする機会などはまるでない
少しばかり口を挟んでみた<青少年の遊び心と実態を説明すると>あなたみたいな人が出席するべきだという返事が返ってきた、このような先生達が論文を作成し世に公表している<新聞や雑誌の寄せ集め記事のようになる>当たり前の事しか書いていない・聞いてみなきゃわかんね~もんだ~

今度は地球上で一番恐いモノはなんだろうと考えてみた・答えは人間になる・獰猛(どうもう)な肉食動物でも範囲内を越えなければ襲ってはこない・しかし人間はとんでもない思い込みで瞬間に行動を起こしたり、色んな道具までも使う・怖~い生物だ~・
憎しみや恨み事も根深く・戦いは永遠に続けられる・それでも この世で一番素晴らしいものはと・問われれば・これ又人間になる・なんともややこしい・人間万歳というしかない・
新聞・雑誌広告には いつも精力剤が載っている、男どもは精力増進を求め地球上の ありとあらゆる”モノ”を探し出しては精力増強に結び付けたりもする、古今東西これがビジネスになる。
ならば地球上で一番精力の強い動物は何だろう~<やはり人間になる>他の動物は陽が昇り陽が暮れる迄が活動範囲だが、人間は昼も夜も場所も関係無いのだ・いつでも・どこでも 見境もなく発情行動を起こす・てえへんだ~てえへんだ~
スナックにバイトの女子大生
たまにのぞくスナックにバイトの女学生が二人入店していた、会話も出来ずに黙って立ってるので話しかけることにした・学校で教えてくれないことを教えてあげよう・と声をかける・

いいかい~世の中には好き・嫌い・どちらでもという三人の人がいるんだ~好きな人はほっといても相性が合う・嫌いと思った人は無理に近づかなくても良いんだ、どちらでもという人に声をかけて友達になれば三人の中で二人が味方になる・これで世渡りが楽になるんだ~
だけどね~嫌いな人は・あなたが相手の欠点を知るように・相手もあなたの欠点を知ってるんだ、となると<学びの多いのは>この嫌いな人なんだよ・付き合ってみる価値があるんだ~
おいらも嫌いなタイプと友達になった、最初はどうしようかと考えた末に友達として付き合ってみようと・決めた・細かいことは考えないことにしよう・
彼と会話を交わせばモノ事の見解の相違を感じた~だけどこれが学びになった、付き合いは35年を経過して色々と勉強させて貰った・2021年にデルタ株を感染し・亡くなってしまった。
残念でならない・涙が出た~いつの間にか一番頼りになる友人になっていたのだ・相性は悪くても付き合ってみないと人は解らない・

82)人間ウオッチング
それにしても 最初に勤めたフナイ電機を退社してからは良くも悪くも転々と職場を変えてきたものだ、フナイを辞める理由に社長の顔を一度も見たことがない・せめて新年には社員一同を前に将来の目標・展望を聞かせて欲しいと思った。
身を預けてる訳だしこの人の目標達成に頑張るぞ~・が・励みになっただろう・おいらは忠実な性格なのだ(今ではフナイ電機も少しは認知度のある会社になってきた・これは嬉しい)しかし2024年に倒産のニュースが流れた😔
水商売に入ってからは博多・大阪・東京・札幌と多くの店で体験させてもらい・沢山の人間ウオッチングを楽しめた・たとえば女性が男性に声をかけて誘う人もいる<所変われば品変わるで> 札幌の女性は積極的だ~気に入った男性がいれば・ごく普通に声をかけて誘うのだ・

札幌女性を数字に例えれば60度・博多と東京は40度・大阪の女性は予想外に控えめなのだ、自分から声かけをする女性は少なく30度・と・こんな数値に~なるようだ。
最初に洋酒喫茶で働いた時に・なぜだろうと思ったことがある・若い女性客が多いのだ~若い男子は仕事を憶えよう・一人前になろうと・励んでいる時に女子は夜遊びを楽しんでる・というか・何かを探し求めている・
つまりは女性は結婚をすると・遊べなくなる・独身の時に遊んでおこう・もあるが結婚相手を見つけるは~女性の重大事項になる・これも背景にあるようで・

女性は 17・19・21・29~49才と奇数年齢は活発に行動をする、19才は・20才になればおばさんになると云ってよく遊ぶ、29才は・この期を逃せば結婚相手のハードルが下がると活動が盛んになる・
店にも流行があるようで
昔の様に多くの人が飲んで遊べる洋酒喫茶はない、バーテンダーが20~30人いて飲み代は安く旨い料理もある、目前で生バンド演奏はガンガンと音を鳴らし踊れる・こりゃ最高だ~でも今は・人件費の関係で・もうできっこない。
今はバンドミュージシャンが育たない・練習をすれども<演奏を公開する場所がない>ギャラを払ってくれる”ところ”がない・やる人達が増えれば 良い曲も生まれる~あのような時代が再び来てほしい・
今は個人主体になりラップの延長でメロディがない~ダンスに移行した~これもいつしかは終わりが来るのだが・

飲みに行けば
お客さんとホステスの恋愛は当然の如く生まれる、モテるお客さんもいればそうでないお客さんもいるのだが・見ればわかる・パリッと高級スーツを着こなせばモテるとは限らない。
シャツ一枚の恰好でも洗濯したてに・髪・指先・靴の手入れが行き届ている・こういう人は誰にでも親しまれて好感度が高い、モテない人には特徴がある・言葉づかいが乱雑で一方的である。


これは言葉が荒いのとは異なる、荒いのは積極性があり頼りになるとも解釈できる・良くしゃべり・ハシャグタイプは三枚目の役者になる・それではモテない人はまるでモテないかと云えばそうではない・どの世界にも似た者同士がいる・世の中は上手く出来てる・
最悪は相手にされないタイプ・落ち着きがなく焦点が定まらず<何を考えてるのか解らない人>稀にいる、モテる人は落ち着きがあり・健やかで気配りを感じるタイプだ~そばに居て安心できる・育ちがイイんだろうな~
当然・女性スタッフも人気のある人と・そうでない人はいる・人気のある人は 表情が活き活き としている・動き(身のこなし)が良い・にこやかで気配りが出来ている。
恋愛で最低な男とは男女関係を暴露する男だ・芸人にもいた・元親方と離婚した女性との関係を世にバラシ、事の中身まで喋ってアメリカへ逃げた(二人の息子も黙ってはいられない)男女間を公言するは女性への侮辱となる・口の堅い人は女性の好みだ~

もし奥さんや彼女が夜のバイトをやるならば<浮気は覚悟しなければいけない>勤めにでれば男性を見る目は自然と変わってくる・好みでカッコいいお客さんが<自分目当てに足を運び・お金を使い・歯の浮いた言葉で誘ってくる>いつしか負けてしまう・当然の如しである・代償は重い~
方法はある<勤める前に教訓>をインプットすれば70%は守れる《お店にいる時はお友達で一歩外に出れば知人》
入店時に心得ておけばハメを外す確率は減る・この白黒をはっきりと出来る人は<人気の人になる>何事も最初が肝心~初心忘れるべからず・

転々と渡り歩き・色々と学び教わった~人それぞれの人生に・正解もなければ不正解もなく・あれも良し・これも良しと・するが又良し~
83)人の縁は解らない
ずっと思っていた<大人になりたくない>頭から離れなかった・子供の頃のトラウマから抜け出せないのだ~もうすぐ50歳になるのに~

あれこれと経験はしたつもりだが<侘しさも感じていた>自問自答をすれば<子供がいない>これもトラウマの影響だと思っていた<子供がいなかったので自由にやれたのだが>
知り合った女性
この日もいつもの様に飲みに出かけた、宗右衛門町通りの角を曲がるといつも呼び込みをしている・呼び込みをする店は多少ランクが落ちる・雰囲気やサービスに課題があり常連客が定着しないのだ、この店もテーブルについても・なにかしら温かみを感じない・そんな店だった。
それでも午前3~4時まで営業してるので帰りにもう一杯という時に寄っていた、この夜も入店すると初対面の女の子が正面に座った、なにかぎこちなくオドオドとして会話が苦手のようだし・表情も冴えない・

聞いてみるとこの店で二月が過ぎて寮住まいをしているとか、その寮はおいらの住まいから10分圏内にある、数日後もその子が座ったので何気なく明日寮に行くと話をする、翌日の昼にマンションに行くと6畳の部屋は棚も生活用品も何もない・ガランとしている・これほど何もないのも珍しい・計画性がないようだ。
彼女曰く・今20才で親に勘当されて縁を切ったので善通寺市に戻ることはないとか・話を聞いているうちに・何かを食べに行こうとの思いは消滅したので帰ることにした。
部屋に戻りなんとなく考えてみた、あの店とあの子なら27歳まで店にとどまるかもしれない(感はよく当てる)歳は29も離れているが・どうもほっとけない気がしてきた、2日後に彼女の部屋に行き言葉をかけた
このままここで過ごすよりもマシかも知れないので<ウチにおいでと誘う>と彼女は頷いた、翌日に迎えに行き・手荷物を持って部屋を後にした・
ひょんなことから二人の生活が始まった<人の縁は解らない>一緒に住みだすと彼女の表情に活気と笑顔が出てイキイキとしてきた~
まだ世間を知らないようなので近所のスーパー勤めを勧めた、スーパーなら食品の良否・仕入れと販売・物価の単価・どのようなお客さんが何を買って・今日はどんな料理をするのか・人間ウオッチングが出来て何かと勉強なるはずだ~
元気よく勤めに行き出した
年が明けて・私、成人式なの・というので、それではと近くの写真屋さんに行って記念写真を撮ってもらった、その時に~たとえどんな事情があろうと親子の縁は切れることはないので写真でも送って・元気でいることを知らせてあげればと、彼女も落ち着いた頃だったので手紙を出したようだ・


一緒に住みだして3ヶ月が過ぎた頃に中古マンションでも買おうと玉出駅の近くに3LDKを1LDK(リビング24畳)に改装した部屋があったので・そこに引っ越した・住居が変わると新生活が始まったような気持ちになった~
そうなると毎月の生活費をどのように渡そうか<月末に手渡しするのは気乗りがしない>それでは預金通帳を作って入金をしよう
通帳を持ったことはなかったようだ、今後は何かと必要になるだろう・毎月20万円を入金しよう・公共料金は引き落としだし・外食も多いので生活費は余りかからないのでへそくりもできるだろう。
84)西日本一周旅行
彼女は旅行の経験がないようだ、あっちこっちへと連れ出し見聞を広めてやろうと車で10日間・山陰~九州~山陽道~四国~へと計画を立てた、旅費はヤマカン試算で合計62万ほどになりそうだ。


時間は自由なので早速でかけることした、まずは新聞広告に載っていた山陰竹野でフグを食べ米子の皆生温泉~食塩泉が珍しいのでここに泊まる・寄り道をしながら山陰道を走り関門トンネルを通り、日曜日の昼に小倉競馬場に着いた。
これはおいらの予定に入っていた、資金は3万円で彼女には6千円と競馬新聞を渡し、馬の名前でも好きな数字でも・何でもいいから1レース千円を買って~
7Rからスタート・買い方は三連複5頭BOXと軸馬一頭5点流し・7レースはハズレ・8R・9Rは的中したので賭け金を増額していった・12Rを終えてなんと<プラス64万円になった>こんなこともあるんだ・信じられない~これで旅行費用は丸々浮いてしまった<旅先では賭け運があるとは聞いた事はある>が~

上機嫌で競馬場から九州7県巡りへと車を走らせた・ひと回りして土曜日に再び小倉競馬場に着き、この日も12万円の勝ちになった・帰りは尾道でラーメンを食べ瀬戸大橋を渡り愛媛から高知へ
高知で行きたいところは<ジョン万次郎資料館>だ~ジョン万次郎の生き様を知った時はワクワクとした・夢の中で人生を歩んでる~
ジョン万次郎<1827年1月1日生まれ>
この人ほど<行きあたりばったりで破天荒な運命>をたどった人は類を見ない・9歳で父親を亡くし、母親に育てられたが何しろいたずらっ子で・14歳の時に友達と遊び疲れていつものように船内に潜り込んで寝てると、その日は出港日で船は出てしまった・
船は戻るわけにもいかず・そのまま漁に出たのはいいが<大シケになり遭難>無人島「鳥島」に漂着~143日後にアメリカの捕鯨船に助けられ・仲間はハワイで降りるが万次郎は船長に気に入られ<アメリカ行きを決意する>
船長は実の子同様にスクールに通わせ、数学・測量・航海術・造船技術を学ばせた、卒業後は捕鯨船に乗船し数年の航海で世界各地を渡り知る・
その頃・アメリカはゴールドラッシュで沸いていた<万次郎は日本へ帰る資金を稼ぐ為に>サンフランシスコの鉱山へ行き・金の採掘で600ドルを稼いだ。


これを手にハワイへ行き・残っていた二人と帰国に向かう<この時代は鎖国で命の保証はない>意志は固く(1851年)沖縄は糸満市の大度浜海岸に上陸・約半年の取り調べ後に薩摩へ送られ~
ここ薩摩藩は万次郎の造船技術や知識を学び入れ<越通船を建造した>その後に長崎へ護送されて・やっと(1853年)に土佐に戻れたという。
土佐藩は公式記録「漂客談奇」に記し、後に「漂巽紀略全4冊」が出来上がる・坂本龍馬や多くの幕末志士達に読まれた・さぞや心を搔き立てただろう~
土佐藩の藩校「教授館」教授に任命:岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)にも教えている、やがて万次郎は幕府直参の旗本として招聘され江戸へ<名を中濱万次郎として希少な通訳となり>ペリー初来航の際に任務を果たす、勝海舟の咸臨丸では事実上の船長として活躍した。
何ともすごい人生だ~今は銅像となって足摺岬に立ち・海を眺めている・万次郎の功績は日本よりもアメリカでの評価が高く『海外からの米国訪問者展』29人の中に万次郎は選ばれている。
1870年にはフランス視察団員としてヨーロッパへ派遣・この帰りにアメリカに寄港・恩人のホイットフィールド船長と約20年ぶりの再会を果たし・帰国後も小笠原の開拓調査・捕鯨活動・上海渡航・明治政府の開成学校(現東京大学)の教授・アメリカ・ヨーロッパへと任務を続けたという<ご立派>

《お母さんには大変な辛い思いをさせ・大変な喜びをプレゼントしただろう》
と言う訳で万次郎資料館を見て無事帰宅・10日間の旅費は64万円だった・ヤマカンは当たった、次は東日本を一ヶ月くらい旅してみようか~と言ってみた。
旅行中になんとなく気になっったことがある、柳川市・歴史民俗資料館を見学の際に二人で歩いてたはずなのに・アレ~いなくなってる・探して又一緒に歩き出したが又いなくなってる・この時に一瞬頭をよぎった・この人はいつしか去って行く人なのかも・まあ~それはそれ・考えてもしょうがない・

何処に行ったんだろう


85)長崎港のブリトロは天下一品
それにしても長崎のブリトロは美味しかった・夕刻前に長崎漁港を二人で散策してると・小さな小屋みたいなのがあった・横壁の小窓が半開きで少し光が射している、なんだろうと覗いてみると寿司ネタケースだった・
中には大きなブリ腹部のブロックが横並びに3本も白布で包んである、なんだこりゃ~全部ブリトロじゃん、それも立派なブリだ~この店でこれだけの量をさばけるのだろうか~と疑問に感じた・



全部売れるの~
元々ハマチ・ブリは余り食べない、養殖ばやりの初期時に餌の質を落とす生産者が多く美味しくなかったからだ、それでもこのブリトロの大きさと質には興味が湧いた<当然天然ものだ>日が暮れて二人で食べに行った、




ドアー開けると既に5人のお客さんが入店している、皆さんブリトロを食べてるので同じくブリトロを注文して口に入れてみる・驚いた~今までのモノとは別格だ~
店主はこの味に自信を持ってブリトロをメインにしたんだ~さぞや目利きも肥えて漁港では一番良いモノを仕入れてるんだろうな~旬である冬場だったこともあり旨すぎた~
多分これ以上に美味しいブリトロに出会うことはないだろうと思いつつ、口直しで他のネタも合わせて食べることにした・それからは寿司屋に入るとなんとなく・気になり・ブリトロのネタを見るが・やはりあれほどの”モノ”はない。
マグロの大トロは飽きるほどに食べたことがある<20才の時だった>曾根崎お初天神通りに客席40席ほどの寿司屋に友達二人と入った。




27歳位の板さんが話しかけてきたので機嫌よく答えていると・何を思ったか板さんが・今日は良いのがあるからね~一番うまいものを食べさせてあげるわ~遠慮せんとなんぼでも食べてや~
白布に包まれた大トロのブロックをネタケースから取り出しカットしだした・一番高い¥1200の大トロを一番安い¥120皿に盛って出してくれた・食べ終えるとすぐにまた握っては出す・握っては出す・9皿で満腹になったので・もうこれ以上は食べれそうにないです~


どこを気に入っても貰えたんだろう~と話しながら帰ったが、それから大トロは何年も食えなくなった・脂身の味を想いだしてしまう
(江戸時代は冷蔵保存ができない・大トロは傷みやすく・廃棄されていた)
おいらは外食癖が身についているので・彼女をあっちこっちへと連れて行った、美味しいモノを食べれば・味を憶えられる・との思いもあった・
こんな会話を耳にしたことがある・スナックで飲んでると隣の声が聞こえ<うちの女房は料理が下手で食べる気がしない>というのだ・よくそんなことを言えたもんだと呆れた、当人は会社勤めの付き合いとかで・味を知ったのだろうが・
この人は奥さんを家に閉じ込めて一緒に出かけない人のようだ・二人で美味しいモノを食べれば・奥さんは料理の味を知る<料理は食べてこそ覚える>
彼女もそうだった、車で阿倍野を走っていると《ステーキ・フルコース》の看板が目に付いたので二人で行ってみた<前菜・スープ・メイン・ドリンク・デザートのコース>をご馳走になり帰宅したのだが、




それから一週間後の夕食にステーキコースが食卓に出てきた、それもその時に食べた・そっくりそのままのコースだった・これには驚いた~感激だ~
86)なんとなく香港へ
どこか海外旅行に連れて行ってあげようと思い・個人で旅行会社をやってる中川さんのところへ遊びに行くと・香港マカオ旅行の予定があるとか・それなら・一緒に行こうか~
香港国際空港に着陸・バスに乗り街中を走ってるとなんとも・ごちゃごちゃと古い建物が乱雑に立ち並んでいる、




初期の時代に我も我もと人が集合し・増設が度重なって市街地になったような雰囲気だ~アメリカの開拓ように計画を伴った街造りとは・まるで逆だった。
香港に住む全員がアパートやビルから外へ出たなら<人が溢れて海に流出する~>と云う冗談もあるほどに密集している・だがレストランでの食べ物は違った・イギリス領で経済都市だったので中国や日本からの良品が香港に流れている・新鮮な食材が豊富に揃い高級食材も安く食べられた。




マカオは単なるギャンブルの国でしかなかった、賭け事をやらなきゃこれといってみるべきものもなく・香港から流れ来る人達を相手に稼いでいるようだ・
87)予想もしなかった:インド旅行
香港から戻り・なんとなく聞いてみた~何処か行ってみたい外国は~と尋ねると・インドに行って見たいという。




そうか~じゃ~インドに行こうか~それまでにインドという発想はまったくなかった、仏教と映画作りが盛んな国とは知ってはいたが・いい機会だ~この際に行って見よう~
中川さんにインド旅行を手配して貰った・広い国なので良く解らないがニューデリーを起点に7泊8日の予定で出発した。
空港に着きゲートを出ると通路に30代の男性ツアーガイドが名前を書いたボードを持っていた、挨拶を交わし同行すると車は5人乗りの古いベンツだった。
ドライバー&ガイドと4人で旅をするようだ~・タージマハールのアグラ・ジャイプールのピンクシティー・アンベール城・ガンジス河を巡るとか・




ホテルに到着・翌朝に迎えがきたので乗車し舗装されていない道路を走り出すと、気温が高いせいか樹木は緑色が少ない<周りの景色全体が土色に見える>どの目的地にも数時間はかかるようだ・
途中で小さな町に立ち寄り・店舗に案内された・ツアーガイドは必ずお土産店に立ち寄るのだが・どの店も通常よりも少し高めになる<ガイドに支払うバックマージンが含まれる>
それでも何か一つは買ってあげなきゃと・車内はクーラーは効いているが外はなにしろ暑いので、現地の人が着ているクルタシャツを買って着替えた・町中はどこも人だらけで賑わっている・




やっとたどり着いた世界遺産のタージマハル「宮殿の王冠」はさすがに景色が違った、それまでの乾いた風景とは一変して広々とした平野の中に・水と緑がある<愛妃の墓タージマハル>は総大理石で造られているだけに白く悠々とそびえ建つように見える。
皇帝シャージャハーンが妻への愛情の深さを表現した建造物なんです・とガイドが説明してくれた、国の財産の大半を費やしたとか・凄い愛着心だ~
次はピンクシティを見学して~マハラジャの宮殿城塞<アンベール城>に・高所の城は歩いて登るには厳しいので観光客は神様として慕われる象の背中に乗って頂上まで行くようだ、
象の背中には4人~6人が座れる平面の板枠が作ってあった・欧米からの観光客も多く20頭以上の象が待機している、皆さんそれぞれに背中に乗って列をなしてゆっくりと石坂を登って行くことに・




象が歩き出すと・後ろからゼェゼェとせきを切ったような枯れた声が聞こえた
なんだろうと象の背中から下を見ると<なんと~両足の膝下と足首が切断されてる・片腕も肘下がない>身長は120cmほどの40代と思われる男性が上半身・土汚れの裸で地面を這いつくばりながら懸命に象についてきている・
カスレ声を絞り出すように何か叫んでる・多分マネーと言ってるのだろう~こんな悲惨な姿をした人を見たことがない<必死に生きているんだ~>何とも表現しがたい・気持ちになった・
どうしよう・どうすれば良い~100ドル札をコインに包んで投げれば~と頭をよぎった・周囲を見渡せばみんな見て見ないふりをしている・皆に惑わされたのか・迷ってる間に距離は離れてしまった・間に合わず投げきれなかった・
この地の100ドルは大金だ~理由は何であれ・おいらよりも・彼には100倍の価値があるはずなのに・たとえ一瞬でも喜びを与えられた《あ~あ情けない》これは今だに後悔をしている・自分を恥じている・
自問自答している間に
象はズシンズシンと力強く石坂を登りきり・アンベール城の入口にたどり着いた・小高い丘の上から広々とした気持ちの良い景色を見渡す・城門を見れば「世界一美しい」と云われる門があった・




正面全体を精巧な透かし窓やフレスコ画(ミケランジェロとかの壁画や天井画)で描かれた図柄は芸術性に溢れている。 そこから中庭・寺院・庭園・広場と案内された・壁画や天井までを装飾で飾られた場内は・当時なら目もくらむほどの豪華絢爛だったに違いない<現在は修復されている>
おいらが行った時は修復前だった、入口から城内も傷だらけで壁画や天井は薄汚れて原形が読み取れないほどに~それもそのはず1857年~イギリス軍がインドを武力制圧した時に銃で発砲した弾痕があっちこっちに残っている・
それだけではなかった入口から<玄関の上・壁>のいたるところが掘り削られて穴ボコだらけだ~そこには宝石が埋め込まれていたという、それをイギリス軍が掘り出して持ち帰ったそうだ・インドは最初のダイヤモンド産出国であり・宝石大国だ~マハラジャの栄華は崩壊された<修復はされてはいるが宝石はない>




この時代にイギリス軍が植民地にした国は中南米・カリブ海域・アジア・アフリカ・オセアニアの各国と数えきれない、軍艦を持ち先端の武器を持てば支配できる・これは今も昔も同じようだ・綺麗に修復された現在のアンベール城は過去の歴史を消してしまった~
アンベール城と日本の城との違いを感じた、ここは闘いとは無縁で優雅さを重んじている、毎月の特定日に各地から行商人が食品やモノを持ち寄り市場になって賑わったり、広場に庶民を招き入れてお祭りをやっていたという、良き時代だったようだ・お国柄を感じた・
今日はフリータイム
ご自由に過ごしてくださいと言われ、二人でタクシーに乗って街に出てみた・街は人や車の往来が多く人口が多いんだな~と感じながら空を見上げると日本の様な青空ではなく少しかすんでる・やはり暑い・と思ってると道路に大きな温度計があった・見ると43度を示している・暑いはずだ~
名物の自転車こぎ三輪車に乗って街中を走ってみようと・乗ってみた・窓ががないので風が吹き抜ける、外に手を出すとドライヤーの温風のようだった。
そんな中でも人や車でごちゃごちゃとした賑わいがある、店舗を見渡すと何処にもクーラーがない、クーラーを置けばお客さんは来るだろうな~とは思ったがクーラーを置けるほど裕福ではない時代だった。




なにか現地のモノを食べようとレストランに入り皆が食べてるナン(小麦粉の生地をタンドールという焼き釜で焼いたもの)を注文した・カレーに浸けて食べたが当然ながら普通の味だった・ひと通り街中を廻った~
ホテルに戻るとロビーで30代後半の男性が占いをやっていた、そう云えばインドといえば占いの元祖の様な国だ~南インド・タミル地方の寺院には『アガスティアの葉』が保管されていて・訪門にやって来た全ての人<過去・現在・未来の運命が書かれているという>これを求め世界中から占いにやってくるとか。
何となく興味が湧き二人して診てもらった、おいらにはこれといった言葉はなかったが、彼女には・あなたはご主人の言葉について行けば何もかもが良くなりますと言われていたようだ・




その後一人で外の景色でも見ようと出てみた~郊外のホテルなので道路しかなく・何もない・左側に広々とした野原に50cm~1.2メートルの雑草が生い茂っている・中に足を踏み入れると、男女6~7人の子供達がキャーキャーと騒ぎながら・かくれんぼを楽しんでいる。
一番年上に見えた12才位の男の子が傍に来た時に声をかけた、ポケットに20ドルとコイン数枚があったので・みんなに分けて上げてと渡した。
ところがすぐに戻って来た~あれ~なんだろうと~彼が言うには平等に分けられない数字になるのでどうすればという、なるほどインド式計算法は早くて正確なようだ(日本は9X9までだがインドは19X19まで計算できる)おまけに・おじさんの名前はと聞かれた~
なんて真面目なんだろうと感心しながら、じゃ~お母さんに相談して・と言って別れた、帰ろうと歩いてると・ 雑草の中から声が聞こえた・見ると土壌を掘った木材作りの小屋から叔母さんが手招きで中に入りませんかと言ってる、どうしょうと思った時に・
あ~ここは外国だ~もしもこの場で行方不明になれば発見は難しいかも知れないと思い・時間がないのでと・お断りしてホテルに戻った。




翌日はガンジス川の見学だった・現地の人達は沐浴をしていたが・正直に言えば<汚れている川でしかない>大丈夫かな~と思いつつ眺めていた、現在も上下水道は未整備で工場排水もあり・水質汚染は深刻のようだ~
ガイドさんは『ヒンズー教徒』で牛を神様と崇めているようだ・インドにはもう一つ『イスラム教徒』がいて彼らはやや過激派だとか・




ガイドさんはお金にならなかっただろう、何軒かの土産店に立ち寄ったが元々みやげ物は余り買わない、想い出として何か一つを見つけて買うくらいだ・帰り際に残った小銭を年輩のドライバーに渡してバイバイした・
香港の時もそうだったが・写真は一枚もない<カメラを持って行かない時の方が多い>その瞬間を味わうのだ~
88)彼女の両親が来ていた
旅から一週間経った土曜日だった、帰ると玄関に二足の靴が並んでいた・誰だろうと部屋に入ると彼女の両親が来ていたので驚いた、記念写真を送った時に写真屋の詳細をみて住所を教えてもらい・やって来たとか・大変だったんだ~
両親と彼女が話し合い・今の生活を続けたいとの意思に、それなら形だけでも式を挙げてほしいと<電話帳にいつでも式ができる教会>があった・翌日に教会へ行き・レンタル一式を借りて・神父の言葉に誓いを述べ・無事済ませた。




一週間後に車で善通寺市に出向くと彼女の実家は農家で親戚の土地を借りて米作りをしていた、家に入ると室内はガランとしていて・本が一冊も見当たらない・農業なら必要ないんだろうな~と思いながら、結納金をお渡しして無事帰宅した《勘当は・彼女の自説だった》
89)ダイビングスクール
二人の共通の遊びを見つけよう
おいらが好きな遊びは~海中に潜りヤスで魚を捕らえるだった・理由は海中の景色にある、地上とは違った色合いと風景は未知の世界のように感じられる、なので熱帯魚も飼っていた~ならば彼女にも海の世界を見せて上げよう。


初心者ならダイビングスクールがいいかも~一緒に行こうと誘い・ 雑誌広告に和歌山由良町で1泊2日:レンタル器材も揃っている、由良なら釣りの時に通るので慣れている、海水の透明度はイマイチだがこれはしょうがい・申し込んだ~
当日は5時過ぎ起床でバタバタと準備をし車で行くことに、8時半集合前に到着すると20人以上が来ている、意外と多いんだな~一日目は海中での知識や用具の使い方の講義 ・翌日は実技体験・ウエットスーツに着替えて重いボンベを担ぎ、班別に分かれてインストラクターの導きで海中に潜る・


海中はウエットスーツ着用で水の冷たさを感じない・ボンベはプカプカと浮く感じになる、だが2mほど潜ると水圧がかかってくる・水深3m~以下では上から押さえられるように水圧を感じる・
ボンベの酸素は30分ほどしか持たないので・切れる前に陸に上がり交換して又潜る・ここの水深は7m位だった・海底の水草に小魚が群れて・ア~砂地に小さいタコがいる・いつもの光景だ~
午前の潜りを終えると少し気分が悪くなった・あれ~これは船酔いだ~ボンベが波に揺れて船酔いするんだ~こりゃ~知らなかった・
ボンベの重みや取り替えの不便さと船酔いがあるなら、やはりおいらは水中眼鏡とシュノーケルの素潜りの方が楽でイイやと感じた~ただウエットスーツはイイ<これを着用すると疲れない>


海水浴とかで疲れるのは水温から体温を保護しようとする・エネルギーの消耗で疲れる訳だが・ウエットスーツなら体温キープで疲れない・これは必要だと半袖のウエットスーツを買うことにした。
終了は夕暮れだった・思ったよりも強行スケジュールだったので彼女も海の景色を見る余裕はなかっただろうが、国際ライセンスも取得できた~




湯浅の海に高島という無人島がある<かるも丸>の船頭さんに予約をし何度か島に渡った・ここは誰もいない遊び場だったので・いとこと子供達10人で行ったこともある。
無人島の開放感はさすがに子供たちも大喜びだった、いとこは早々と疲れてバーベキューの用意をしてるのだが、おいらは疲れないので子供達と遊んでやれた、いとこはおいらをタフだな~と言ってたが<これはウエットスーツ>のおかげなんだと教えといた。
この島はアワビやサザエとかを採って持ち帰ることも出来るが、4~6月頃に誰かが先採りに行くようで7~8月頃には採れない、和歌山の海中の透明度は御坊の日ノ岬からは綺麗になる・白浜の海水浴場には魚も多く・泳いでいると足元に魚が当たる時もあった。




海は楽しい・ 少年時代から夏になると海水浴場よりも磯場が好きで良く行った、誰も来ないので解放感と素潜りを楽しめる、帰りにニナ貝とかを採ってビールのつまみにすると二度楽しめる・やはり原始的な遊びは楽しい・
近年はアマゾン部族の子供たちもスマホを持ち学校に行きだしたのはいいが、イジメがあり・仕事には馴染めず・自殺をする若者が出て来たという・文明の発展と幸せは必ずしも平等ではない・部族の文化は残して上げるべきだと・思う・




90)子供ができた・・
この頃にやっと人並みの家庭生活を送っているような気がした~そんな時だった子供ができたと云う・自分には縁がないと思っていたが・少しづつお腹が膨らむごとに父親になれるのかと・実感が湧いてきた。


子供がお腹にいる時に<これだけは守ろうと思った>妻には日々を機嫌よく過ごして貰う、理由はお腹に子供がいる時に心配事やアクシデントがあれば、多少なりとも悪影響があるかも知れない、毎日気分よく過ごせば健やかな性格にとの・持論として考えていた・
この先は自分のことよりも子供中心になるんだろうな~もう自分事はひと通りやってきたので・悔いはない・この先はどう育てれば良いのだろうかと~想いを巡らせるようになっていた・三月が過ぎると男の子だという・嬉しかった・
色々と考えてみた~子供にはやって良い事と悪いことは早くに教えといた方が良さそうだ、小学5年と中学二年にパチンコ店とボートレース場に連れて行って見学をさせる。
パチンコ店では台に食らいつく大人たちがどれほどの時間を無駄にしているかを観察する、投じたお金は店舗の運営費・従業員の給料支払いで、還元率は微々たるもの<お客さんの服装やその姿を見学させる>




ボート場も同様にお客さんを観察させる、投じた約30%はピンハネで消える、賭けても賭けてもピンハネされる・一万が7千円・7千円は4900円・4900円は3400円になる、そこに群がる大人たちの姿を見学する。


その後にビジネス街で人間ウオッチングをする・その他の職種も幅広く一緒に見学に行く・学校で教えないことを教えるのが親の勤め・この様なことは成人になって・とやかく言っても遅い・子供の頃にしっかり方向性を見い出せるように・道しるべを作ってあげる。
高校・大学のバイク通学もそうだ、道路はバイク走行に不向きだ<必ずや事故を起こす>バイクの走行中は信号と車しか眼中にない、一日50分乗ったとしても年間の総時間では凄いロスタイムになる、電車通学なら本も読め・人の観察もでき・考え事もできる。
じゃ~息子に何になってもらいたいと考えると・東京芸大~映画監督はどうだろう・子供の頃から一緒に映画を観て感想を語り合い、太秦映画村とかに遊びに行く・楽器の一つも覚えシンガーソングライターになれば直良し・このような事を想像するようになった。




出産は善通寺の産院だった・そして息子は誕生した~不思議な思いがした、随分と遠回りしたんだ~やっと子宝の意味が理解できた・宝以上の”モノ”だと知る・遅まきながら~

